2015年5月31日日曜日

「すべてか無か(白か黒か)」の機能とコントロールの関係







アルコール依存症者の子どもたちに共通する態度「すべてか無か(白か黒か)」の機能とコントロールの関係についてお話しましょう。


  • 何もできなかったと考える。
  • 何もかもがすべて正しくないと考える。
  • すべて間違っていると考える。


このような考え方は、「すべてか無か(白か黒か)」の機能を働かせている典型的な状態です。


「すべてか無か」の機能はそれだけに留まらずコントロールの問題に発展します。

コントロールしているか、していないか?の2極化した状態で機能しているか、していないかを判断します。

本人が認識した結果、思いのままの状態が維持できていれば続け、そうでない場合には全く無関係に過ごすかのどちらか一方なのです。

「すべてか無か」はコントロールと1セットなのです。


「すべてか無か(白か黒か)」で判断する彼らの特長は、コントロールを失わないように自らに注意を与え続けるか、そうでない場合は無関係を決め込むことです。無関係に過ごすのは、傷つくことを恐れる結果なのです。

「すべてか無か(白か黒か)」も、コントロールしているか?していないか?そのどちらも柔軟性に欠け、現実的ではありません。


コントロールの問題は、「すべてか無か(白か黒か)」の問題が感情的に行動化したものです。思い通りにならない場合はコントロールで相手の自由を抑えこもうとするわけですから、状況によっては簡単に暴力に走ります。つまり破壊、破滅が隣り合わせに並んでいるのです。


どのようにして、このような仕組みを身に着けたのでしょうか?

健全に機能している家族のもとでは、「すべてか無か(白か黒か)」ではなく、時にあり、時にない。白でも黒でもないグレーである中間的な場合が多く、思い通りにならない状態を我慢ではなく自然な形で柔軟に受け入れます。


思い通りにならないからといって暴力に訴えることは理不尽であり、あり得ないのです。

コントロールを失わないように注意深くなるのは、アルコール依存症者のいる家族に育った場合に多く見受けられる現象です。

子供時代にコントロールを手離すと自分が精神的、あるいは身体的、もしくはその両方が傷つく場合が多いからです。

たとえば、好意を持っている異性とはじめてデートした日に、相手が気持ちを表明することを期待したものの、特に何もなかったというのは失望することではありません。相手には相手の考え、ペースがあるからです。


しかし、白か黒かで判断する傾向が強いと、明確な回答となることを望みすぎてしまいます。強すぎる希望は落胆に走る危険があります。一旦落胆すると今度は、否定感を持った状態で相手の考えを確かめようとします。怒りが含まれた状態なので、ラケットを使います。もうこれ以上傷つきたくない防御が働いているので、自分の気持ちや考えを話さないようにして試します。

相手には何が起こったのか分りません。この段階ですでに関係性は破綻に近い状態にあります。


(1)デートの最初に日に、「相手の気持ちを確認したい。」「自分のことは包み隠さずを全部話す」というのは、相手に対する心配りに欠ける行為で乱暴です。なぜなら相手には相手の心の準備があるからです。お互いに、一歩一歩、確かめながら進退を決めていけばいいことなのです。

(2)相手が言わないからといって不信に思い、次回からは何も言わないようにする、というのは感情的な行動であり、コントロールに走っている状態です。コントロールされる立場は楽しいものではないので、続くと関係は破綻します。


(1)(2)を通じて「すべてか無か(白か黒か)」の態度が一貫していることにお気づきでしょうか?
自分でも気づかない隠された目的に注意が必要です。たとえば破綻し、見捨てられたと感じることが目的になっている場合もあります。


「すべてか無か(白か黒か)」の延長にコントロールがありますが、コントロールを放棄し、他者と分かち合うとどうなるかを見極めるのは難しいので、コントロールを手放しても安全と感じとるまで、コントロールを放棄しないので、「すべてか無か(白か黒か)」の問題を最初に理解することが先決です。


対策は、弱い自尊心を強くすることにあります。自尊心は心の柱のようなもので、まず自尊心を築く作業を続けていくことが望ましいのです。

そのプロセスでは感情が不安定になることも、傷つくこともあるでしょうが、そこで中止することなく、自尊心を築くのです。つまり自尊心が弱いので、「すべてか無か(白か黒か)」や、コントロールで自分を守っているのです。


どうして自尊心が弱いのでしょうか?
機能しない家族で育つと、機能していない人が家族の一番弱い人に対して攻撃してきます。攻撃するには理由が必要なので、理由をあげます。
たとえば「お前のせいでこうなった」という言い回しは負い目を感じさせるのに十分で、我慢を強要します。こうして強要する人と自らがひとつになって自分を攻撃する仕組みが日常化します。この仕組みは自尊心をボロボロにするのに十分です。


どのようにすれば自尊心を築けるのでしょうか?
コントロールを企てる裏には、責任範囲の混乱があります。人には自分が出来ることと出来ないことがあります。その見極めをすることです。

酔っ払いが酒を飲むのは、その本人が決めることで、当事者以外にコントロールできません。天候をコントロールできないのと同じです。

できること、できないことには明確な「境界」があります。この境界を繰り返し意識することが克服のポイントになります。


好きな人がいてその人が誰を愛するかは、あなたの問題ではなくその人の問題なのです。あなたを選ばないからといってあなたの責任ではないのです。もちろんあなたには人として魅力を高める機会も権利もあります。しかしそれでも選ぶ権利は相手にあり、あなたにはありません。つまり選ばれなかった責任はあなたにはないのです。この関係性に自尊心が入り込む余地はないし、自尊心を云々するのはバカバカしいほど見当違いです。


このように「境界」を認識して「その問題の主体は誰にあるのか」を考えると、本当の責任者が見えてきます。もともと自分の及ばない問題を繰り返し自分の落度のように感じさせられたことが、自尊心を叩き折る原因になったのです。


それが分れば問題解決は簡単なはずですが、分っても修復が困難なのは、知識が理屈ではなく五感を通して感情として入り込んでいるからです。

だから「頭では分っているけど実行できない」という現象が起こってきます。

克服どころか、我慢のない関係に「情熱」「リアルティ」を感じなくなり、同じニュアンスを持った人物との関係に親和性すら感じてしまうのです。そうでない相手と向かい合ったときには、自分が再現者になり相手を傷つけることも珍しくありません。


このような間違った方向に行かないように、意識することを使い、感情的な行動に暴走しないようにするのです。




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2015年5月23日土曜日

負の伝播



 



虐待は誰にも起こることではありませんが、起こった場合、間違いなく、受けた側の人の心に特別な文化とルールを創ります。

それは長い期間、その人を支配し苦めます。どこかで断ち切って、その特異な文化とルールを断ち切らないと、世代をえて何代にも亘って伝播することは珍しくありません。


 いま今日の段階で、なんとなく生き辛さを感じる人は、間違った文化とルールの影響を受けていないか、用心深く自分を観察するのは悪いことではありません。

アルコール依存症者の子どものなかには、直接、親から酷い目に合っていても、「そんな記憶はない」と断言する人もいるので、間接的に受けている場合には認識できなくても不思議でありません。

さらに自分自身は親から愛された記憶しかなくても、親の中に間違った文化とルールが植えつけられていた場合には伝播してもおかしくありません。


 間違った文化とルールが意識的、あるいは無意識に五感を通じて入り込んだ場合には、自分では意識できない人生脚本に支配されることは珍しくないのです。そして価値観以前の存在のあり方として、自分の文化として自身全般に影響します。

克服は自他尊重を大事にすることです。他者が自分を傷つけることを許さない。逆に自分も同じです。自分のケアは自分でする、自分のことは自分が引き受ける。

つまり主体性を持つことから始まります。他者と比較する必要はありません。自分の素晴らしさを自覚しましょう。



「私にはそんな価値はありません」「私は取るに足らないつまらない人間だ」と思う人がいるかも知れませんが、人は誰でも、人を笑顔にすることができます。人はみんな祝福された素晴らしい存在なのです。


他者と比較する必要などありません。

私たちは物心がついたころから試験の点数で順位づけされてきたので、どうしても劣等感を覚えがちです。

しかし誰にでも、大切な誰かに喜んでもらった経験はあるはずです。それこそがじぶん再生のヒントであり、自分の価値を創造する原点です。学歴や試験の点数など関係なく人は素晴らしい存在なのです。


しかし、もったいないことですが、なんらかの事情で自分の素晴らしさを認識できず、心が折れている人もいます。

しかも昔から日本では謙遜が美徳とされているので、自分を素晴らしい存在だと認めることに抵抗のある人も少なくありませんが、自分を卑下し自分をつまらない人間だと思うことと、謙虚さは全く異なります。自分を素晴らしい存在だと信じられるから、なにごとにも謙虚に感謝できるようになり、逆に素晴らしい存在だと信じていない人ほど、謙虚になれないのが実際です。


 まず自分を信じてみましょう。
これは負の伝播を受けた人にお伝えすることですが、自分自身の面倒をみるという考え方が、虐待を受けた子供たちの新しい行動の一部になると、質的な変化が起こります。例えば、以前は罪の意識に押しつぶされてできなかったことが自分で責任を引き受けてできるようになります。主体性を持って遊んだり楽しんだりできるようになります。


自分と他者との問、特に親との聞に適切な境界線を引き始めると、限界を設定できるようになります。もうひどい扱いは許せなくなるし、他者の思慮のない行動も受け入れられなくなる。

その一方で適切に人を信頼できるし、感情を解放するようになる。

この信頼と適切な対応を伸ばすと約束が出来るようになり、信頼関係が築けるようになります。それは平穏と回復につながります。




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